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3月21日(木)晴れ

今日も暖かかったです。

ところで、先週は岩手に大阪&京都など
いろんな所に行かせて頂いたので
そのことも書きたいと思います。

3月13日(水)は
岩手県にある釜石市立釜石東中学校の
卒業式にお招きいただきまして、出席してまいりました。

僕は1年ほど前、
この中学校の生徒の皆さんの想いや言葉を集めて
一つの合唱曲を作るということをやらせて頂いたので、
そのご縁でお招きいただきました。

生徒の皆さんと一緒に作ったのは
すでに楽譜が世に出ている
『いつかこの海をこえて』という曲です。
全校生徒一人一人が書いてくれたアンケートのようなもの?を元に
僕が作詞と作曲をし、
それを、数多くの合唱曲を手がけている富澤裕先生が
合唱用に編曲して下さいました。

二部合唱と三部合唱の両方がありまして
それぞれ楽譜と、合唱団が演奏したCDが発売されていますので、
ぜひ多くの方々に歌って頂けると嬉しいです。

どうしてこのようなプロジェクトが行われたかというと、
震災のあった年の年末に
釜石東中学校が全校合唱で『第九』の演奏会に出演し
その中で第九のほかに『地球星歌』も歌ってくれたところから
話が始まります。

釜石東中学校というのは三陸海岸の海辺にありましたが、
震災で校舎の3階まで津波に破壊されて、
生徒の7割が自宅を津波に流されてしまったという
非常に深刻な被害を受けた学校です。

しかし、普段から避難訓練をよくやっていたので
登校中だった生徒さんたちが全員避難して助かったというだけでなく、
となりの小学校の児童たちの手を引いて、また
避難の途中で合流した保育園児たちを抱えて走ったりして
その全員が助かったという『偉業』をなしとげました。

その偉業は『釜石の奇跡』と呼ばれ、
絶望的な悲しいニュースがたくさん報じられる中で
ひとすじの希望の光となったのでした。

そんな生徒さんたちと、市民オーケストラの方々が
震災からわずか8ヵ月後に
年末の第九の演奏会を開いたのです。
そこで彼らは、第九のほかにも地球星歌を歌ってくれたというわけです。
(この演奏会は伝統的に毎年行われていて、
 普通に考えれば中止になりそうなところを
 こんな時だからこそやろう!という大勢の人たちの気持ちで成功させたそうです)

その演奏会の様子を録音して放送した
地元のラジオ局のFM岩手の方が、
『凄まじく感動的な演奏だった』といって
作者の僕を突き止め、メールで連絡をくれたり
その音源を聴かせてくれたりしたのです。

そういう感じで交流が始まり、
年が明けた昨年の3月(震災から1年という時期)に
僕たちアクアマリンが岩手に行き、彼らの学校で
コンサートをすることになりました。

ところがそこで一つ問題になったのが、
僕たちが岩手まで行く交通費や宿泊費とかを
誰が出すのかということでした。

僕たちは、当然ボランティアのつもりで
そういった費用は全部自分たちで出すつもりだったのですけれど、
FM岩手の方が
『篤志家の方から寄付があったので、あなたたちが岩手に来る費用は
 そこから出る』とおっしゃるわけです。

僕たちは
『そんなお金は受け取れない。僕たちが費用を払うんだ』と言いましたが、
先方は
『もう会議で決まったので…』という感じで
両方困ってしまったわけですね。

そのとき、
FM岩手の方が言いました。
『では、こうしませんか。
 費用はこちらが出すということにしてもらって、
 その代わりに、ミマス氏が生徒さんたちのために
 ノーギャラで1曲作るっていうのはどうです?』

僕は、『ああ…それならいいかなあ』と思いました。
(ですので、この一つの歌ができたのは
 ひとえにその寄付をされた方々とFM岩手のお陰であります)

そういうやりとりをしてから
僕たちが岩手に行って学校でコンサートをするまでに
わずかな時間しかなかったので
本当に大急ぎで作らないといけませんでした。

音楽の先生が全校生徒に
『みんなの想いを集めて歌を作ることになったので、
 歌に込めたい気持ちや言葉を書いてください』と呼びかけて
全校生徒およそ180人分が書いたメッセージを送って下さいました。

その内容はどれも壮絶なもので
僕は一枚一枚に衝撃を受けながら読みました。
ほんとうに、大きな包丁がグサグサと心臓に刺さるような感じがしました。

その時点で震災から1年近く経っていましたが、
あれだけテレビや新聞やさまざまなメディアで被害の状況を見て、
実際にいわゆる被災地ボランティアで一度だけ宮城県の女川に行っていたのに
被災した個人個人の気持ちや胸のうちなんて
自分は何にも分かっちゃあいなかったんだと思い知らされました。

そして、これは大変なことを引き受けてしまった!
自分は、壮大なスケールの『余計なこと』をしようとしているのかもしれない、と
いう気持ちで押しつぶされそうになりました。
今でも、そういう不安というか、申し訳なさは
ずっと心の中にあります。一生消えないでしょう。

生徒さんたちが書いてくれた言葉で
いちばん多かったのは
『希望』と『感謝』でした。
この2つのワードは、大半の生徒さんが書いていました。

僕はやはり、この歌は希望の歌にしよう、
これから故郷の復興を担うみんなの
幸せな人生を願う歌にしようと思い、
そういうふうに作詞と作曲をしました。

彼らの学校は、釜石市の鵜住居(うのすまい)という地区にあったので
歌詞に『鵜住居(うのすまい)』という地名を入れたいという生徒さんも
けっこういました。

でも、それをやると
そこに住んでいる人にしか理解できない
ご当地ソングになってしまう恐れがあるわけです。
僕は、みんなの想いが詰まったこの歌を
広く大勢の人たちが歌ってくれるといいなあと思ったので
歌詞には彼らの故郷の地名を入れませんでした。

が、しかし
コッソリ入れるということを思いつきまして(笑)、
歌詞の、それぞれの行の頭の文字をつなげて読むと
『鵜住居(うのすまい)で生きる、夢抱いて生きる』となるように
各行の頭の文字を決めて
そこから歌詞を作ってゆきました。

僕はこれを
イロハニホヘトの『いろは歌』
(各行の最後の文字をつなげて読むと隠しメッセージが現れる、という説がある)から
ヒントを得てやったのですけれど、
そういう手法の作品ってけっこうあるみたいですね。

このシカケは、生徒さんたちが
歓声をあげてとっても喜んでくれたので
本当に救われた気持ちになりました。

と、いうような経緯があり
先日3月13日、釜石東中学校の卒業式に出席させて頂いたわけです(凄く長い説明ですみません!)。

この春に卒業する生徒さんたちは、
1年生の終わりに震災を経験しました。

そして、3年間の中学校生活を
3つの校舎で過ごしました。

1年生の時は、美しい海辺にあった元の校舎。これは津波で破壊されて取り壊されました。
2年生の時は、車で20分ほど離れた別の中学校に間借りして学んでました。
3年生になってやっとプレハブの仮設校舎ができて、そこで中学生活を過ごしました。

僕はこの1年ほどで釜石に4回訪れ、
3つの校舎をぜんぶ見ているので(一つ目はすでに無残な姿でしたが)、
彼らの中学校生活の3年間を思うと
『みんな本当によく頑張ったなあ!!』という感嘆と尊敬の念で
胸が一杯になりました。

涙と笑顔にあふれて卒業してゆく彼らの姿は
ほかのどこにでも見られる、
極めて普通の、明るく健全な中学3年生の姿でした。

あれから2年の月日は
彼らにとって
僕などには想像もできないほど
本当にシビアなものだったと思います。

しかし彼らの口から出てくる言葉といえば、
常に『支援してくれた人たちへの感謝』でした。
僕は、
こんなふうにしてこの春卒業していった中学生たちがいるんだということを
多くの人に知ってほしいと、素直にそう思いました。

僕は、生徒の皆さんに
本当の奇跡を見せてもらったような気がしてます。
みんなは『釜石の奇跡』と讃えられ
それは本当に凄いことだと思うのだけれど、

僕にとっては
この2年間、みんながこんな厳しい状況のなかで
きっと胸のうちではいろいろなことがあったのだろうけれど
他人への感謝だとか気遣いだとかを持ちつつ
『明るく楽しく前向きに日常生活を過ごす』という態度を貫いた、ということのほうが
それ以上の奇跡であり偉業であるような気がしてなりません。

皆さんのこれからの長い人生が
幸せに満ちたものとなるように願っています。
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