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3月26日(火)晴れ

今日は祐太と子育て支援センターに行ってきました。

子育て支援センターというのは市の施設で、
無料で利用できる乳幼児の遊び場という感じの場所です。
オモチャがたくさんあって、保育士さんたちが歌を歌ってくれる
ジョイフルタイムもあります。

子育て支援センターには桜の木があるので
ついでにお花見もしてきました。

↓これは今日の祐太と桜の木です。(クリックして大きくして見てね)
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ところでここ数日、毎日のように
先週大阪&京都に行ったときの話を書いていますけれど、
今日も書かせて頂きます。

昨日は京都の石清水八幡宮の写真を載せましたが
そのあと、そこから電車とバスに乗って
京都府と大阪府の境界にある
『洞ヶ峠(ほらがとうげ)』という峠に行きました。

↓これが、その洞ヶ峠(ほらがとうげ)です。
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写っている道路は、国道1号線です。
写真の右奥のほうが一番高くなっている地点で、
あそこを境にして、こちら側が京都府の八幡市で
あちら側が大阪府の枚方市です。

何の変哲もない峠ですが
この洞ヶ峠は歴史上とっても有名な場所です。

1582年の『本能寺の変』の直後、
織田信長を討った明智光秀と、豊臣秀吉が
京都と大阪の中間にある天王山のふもとの山崎という場所で決戦を行いました。
『天王山の戦い』とも『山崎の戦い』とも言われる
天下分け目の戦いです。

この戦いに勝利した豊臣秀吉は、その後
天下人への階段を駆け上って行くわけです。
戦国時代の合戦のなかでも、極めて重要な戦いです。
こんにちでも、スポーツなどで
優勝の行方を決めるような重要な試合を『天王山』といいます。

で、この洞ヶ峠は
合戦が行われた山崎の地から南へ5~6キロほど離れた場所にあります。
ここで、一つの有名なエピソードが生まれたのです。

豊臣秀吉と対決することになった明智光秀は
仲の良かった、奈良の筒井順慶という武将に
味方になってくれるように頼みました。

筒井順慶サンは
その要請に応えてこの洞ヶ峠までは来たものの、
『しばらく戦況を見守って勝ちそうな方に味方する』ということに決め、
しばらく合戦の様子をここで見守っていたのだそうです。

で、豊臣秀吉のほうが優勢になったので
明智光秀を見捨てて秀吉に味方して、
いわゆる『勝ち馬に乗った』わけです。

以来、筒井順慶さんは
『自分の保身のために友達を見捨て
 戦況を見守って勝ちそうな方に味方した
 優柔不断で信念の無い卑怯なヤツ』というイメージで
語り継がれることになってしまいました。

そして、
『洞ヶ峠』という地名は
『戦況を見守って勝つ方に味方する』とか
『後々自分に有利になるように振舞う』という意味の
日本語の慣用句になりました。

が、しかし
今日ではそのエピソードはウソだ、ということになっています。
僕が持っている歴史の本には全て
筒井順慶サンは最初から明智光秀の味方をする気は無く
この洞ヶ峠にも来なかったのだ、と書いてあります。
筒井順慶サンは、何百年間も完全なヌレギヌを着せられていたのです。

↓洞ヶ峠には、レトロな感じのお茶屋さんがありました。
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僕は、せっかく洞ヶ峠に来たので
この峠の茶屋で何か記念にいただこうと思って中に入り
ざるそば(500円)を食べました。

それにしても、
戦国時代の史跡としてはけっこうメジャーなはずの洞ヶ峠ですが
国道をクルマがビュンビュン走っているだけで
何の風情もなかったので
こんなものかいな、と思いました。

で、峠の茶屋の店員の女性に
『せっかく神奈川県から来たので、記念になるような写真を撮りたいです。
 洞ヶ峠って書いてある石碑のようなものは無いのですか?』
と尋ねました。

すると店員の女性は
『私は地元の人間ではないので分かりませんが
 外で作業しているオジサンが詳しいので聞いてみたらいいと思います』
と言いました。

僕は女性にお礼を行って外に出るとオジサンがいたので、
同じ質問をしてみました。
オジサンが僕に
『歴史の勉強してはるの?』と聞くので、
『勉強ってほどでは無いですが、史跡を訪ねるのが趣味で
 この洞ヶ峠にも来てみたいと思ったのです』と言いました。

オジサンは、
『そこの交差点の角に小さな石碑があるよ』と教えてくれたので
オジサンにもお礼を行って、交差点に行ってみました。
↓そうしたら、この石碑がありました。
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写っている影は僕です。

石碑には『筒井順慶、陣所跡』という文字があり、
裏側には『昭和2年』と書かれていました。

こんにちの歴史学では
筒井順慶さんはここには来なかったということが分かっているのに
『筒井順慶がここに陣を張った』という石碑があるのは
いったいどういうことだろうか?と混乱しました。

もしかしたら、昭和2年当時の人たちが
『筒井順慶がここに来たという言い伝えがあるのだから、そういう石碑を建てよう』
というふうに、伝説が事実化してしまったのかな?と思いました。
だとすると、全国にたくさんある石碑というものも
必ずしも歴史的事実を伝えているものでは無いということになります。

そんな話はいいとして、
まだ日が高かったので
僕は、この洞ヶ峠から淀川まで歩いてみようと思いつきました。
地図を見ると4キロくらいだったので
1時間くらいで着くのではないかと思いました。

↓これが、洞ヶ峠から淀川へ向かう道の景色です。
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ゆるやかに下ってゆく道路の正面に天王山が見えます。
その手前側の麓が山崎の古戦場です。

僕はこの道を歩きながら
『なるほど~、洞ヶ峠から山崎の戦場は見えるんだなあ。
 筒井順慶さんが洞ヶ峠から戦況を見守っていたというエピソードは
 いちおうは現実味のある話なんだなあ。
 でも、直線距離で5~6kmというのは遠すぎるなあ。
 あそこで合戦が行われているというのは分かるかもしれないが、
 どちらの軍が優勢か、ということまでは分からないんじゃないかなあ。
 オランダで、リッペルスハイがレンズを2枚組み合わせると
 遠くのものが大きく見えるという原理を発見して
 それをヒントにガリレオガリレイが望遠鏡を発明したのが1610年だから、
 合戦が行われた1582年当時はまだ望遠鏡も双眼鏡も無かったはずだ。
 洞ヶ峠からは絶対に戦況は見えない。
 やっぱりあのエピソードは、ウソなんだろうな。
 でも、誰かがそういう作り話をデッチ上げて、それが何百年間も伝承されたということには
 何か意図や意味があるんだろうな。』
などと考えました。

↓56分かかって、淀川の岸辺に着きました!!
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ちょうど日暮れ時で、淀川の美しい風景が広がっていました。
↓対岸に天王山が見えます。あの手前側の麓が山崎の戦場となった場所です。
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洞ヶ峠から淀川まで
自分の足で歩いて56分かかったというのは
他の人にとっては全く価値の無い、どうでもいいことですが
僕にとっては重要なことです。

僕は昔、
大阪の堺市にある
日本一大きな前方後円墳である仁徳天皇陵(だといわれている大山古墳)を訪れたとき、

やはり自分の足で大きさを感じてみたいと思い
古墳の周りを一周歩きました。
その時は49分かかりました。
とても良い思い出になっていますし、
そのスケールの大きさを自分で体感できたというのは
少なくとも僕にとっては重要なことであります。

ということで
連日長々と書いてしまいましてスミマセンです。
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